ブログ

1503755480

バイロンケイティ



この約5年間で大量の本を読みました。


ほぼそれくらいにしかお金を使っていないというか使えない(笑)

       

人間学社会学系(森信三、田坂広志など)、心理系、道徳哲学系、初期仏教・禅・瞑想関連、非二元・哲学系も沢山。


但し、ちゃんと読んでいたか、実践していたかはとても疑問で、直近では以下のような感じでした。


菅波亮介さんのブログに触発されて、たしか5年前に買って読んだはずのバイロンケイティの「ザ・ワーク」を本棚の奥からひっぱり出してきて再読しました。


なんか初めて読んだかのような感覚。


夢中になって読み直しました。。。衝撃です。


当時はなんか意味が分からなくて、さらっと目を通しただけで本棚に入れてしまったようです。


今は乾いたスポンジが水を吸収するが如く、スッキリと理解できました。


どうやら今が理解し実践するべきタイミングだったようです。


これ、本当に素晴らしいです。


どんな方にもおススメできます。但し自分に向きあえる人。


4つの質問を自分に問いかけるだけで(但し真剣に)、ストレスの元になっている考え方の水面下のビリーフ(思い込みや信念)を浮かび上がらせることができます。そして新たに生きるための考え方を教えてくれます。自分自身で気づくのであまり抵抗なく受け入れられます。


使い方によっては魔法のようなツールです。


読んで実践してみると、ただのツールではなく如何に生きるかの哲学であることが分かります。


これも「今ここ、あるがまま」です。


奥が本当に深い。


あらためて認識しました。ありがたいことです。毎日が発見です。




ネット上で配布されている紹介資料の序文を貼ります。PDFダウンロードは→こちら



バイロン・ケイティのワークにようこそ


序文

1986年に私は、現実と言い争う思考を信じるときにのみ、人は苦しむということを理解しました。現実がそうであるのに、そうであってほしくないと思っても、無駄なことです。それは、猫に「ワン」とほえろと教えるようなもので、死ぬまでがんばってみても、やはり猫は、あなたを見上げて、「にゃ~」となくだけでしょう。これは一見、当然のことのように見えます。けれどももしもよく見てみるならば、こういったたぐいの思考が一日のうちに山ほど現れることに気づくでしょう。「人はもっと優しくあるべきだ」「こどもは行儀よくあるべき」「隣の人はもっとちゃんと庭の手入れをすべきだ」「あの人は私を捨てるべきじゃなかったのに」「もっとやせなくては(あるいは、もっと魅力的にならなくては、もっと成功しなくては)」こういった思考は、今のままの現実に対し、そうであってほしくないと期待する声です。こうして、あらゆるストレス、欲求不満、落ち込みが生まれます。「ワーク」になじみのない人は、よく私にこう言います。「でも、現実に抗議することをやめたら、私は力をなくしてしまうでしょう。ただ受け入れてしまったら、消極的な人生になってしまう」̶それに対し、私は答えます。「ほんとうにそうだと、あなたに分かりますか」いったい、どちらの方があなたに力を与えるでしょうか。「あの人は私を捨てるべきじゃなかったのに」か、「あの人は行ってしまった。さて、私はどうしようか」か。現実をありのままに見ることで、知性的な選択をすることが可能になります。抗議することは、あなたを制限します。「ワーク」は、起こるべきではなかったのに、とあなたが考えていることは、起こるべきだったということを明らかにします。それは起こるべきだったのです。というのも、それは起こったのですから。そして、この世のどんな思考もそれを変えることはできません。だからといって、それを大目に見るとか、認めるということではないのです。消極的になるのはありません。それはただ、物事を抵抗なしに、内面の葛藤というストレスなしに見るということなのです。だれも自分の子どもに病気になってほしくはありません。だれも自分のパートナーに去ってもらいたくはありません。けれども、そういったことが起きたとき、マインドのなかでそれに抗議することが何の助けになるでしょうか。私たちは無邪気にそうしていますが、それはそれ以外のやり方を知らないからです。「ワーク」は現実とのあいだのつらい戦いをやめ、物事をクリアに見る方法を提供します。特定の、鋭い質問を用い、私たちの思考を調べ、自分の混乱に気づきます。これは自己認識です。マインドが自分に出会い、自分を紙の上にとどめ、それを問い直すことで、「あるがまま」に抗議をすることがもたらす因果関係を理解します。





1503179452

NHK 心の時代 シリーズ「唯識に生きる」


今朝は第5回の放送でした。来月が最終回。


小野アナウンサーがマインドフルネスを体験する企画も今回で終わりのようです。勉強になりました。


横山さんは「言葉はそのものを指し示さない」と何度も強調してました。同感です。


今回は理論物理学者の大栗さんと宗教学者の横山さんの対談がおもしろかったです。


見ている追求対象が宇宙などの外側を見ているか、心の内側を見ているかの大きな違い。


それなのに、幸福とは何かと問われた大栗先生の答えが、横山さんと一致したときの安堵感。さすが何事も追求している人は専門外であっても考えていることが深いです。でも途中までハラハラしながら観ていました。


編集前の対談を観たかった(^-^)



横山さんに幸福とは何かと問われ、「人間は目的を与えられずに生まれてきている。しかし機能は与えられている。機能を発揮しているときが幸わせであるのだろう...」


ここでようやく横山さんと一致し、横山さんいわく、「自然は全て与えられた機能を全面的に発揮している」


なるほど。

この人間と自然の違いを思うとき、今マインドフルネスに触れている意味が腑に落ちます。


1500699975

本日、記念すべき初めての体験会が無事終了しました!


皆さまのおかげさまです(^_^)


皆さんから貴重なご意見・ご感想を頂戴し、私もとても勉強になりました。


参加された方々にも、ひとつでも参考になるものがあったとしたらとても嬉しいです。(^_^)


本当にありがとうざいました。

1500248268

心の時代 シリーズ「唯識に生きる」


昨日の NHK「心の時代」はシリーズ「唯識に生きる」の第4回「深層からの健康」でした。


前回は食べる瞑想、今回は歩く瞑想をやっていましたね。


ただ歩く、呼吸に意識を向けてただ歩く。マインドフルネスに歩く。


数年前まではこの番組を見たこともなかったけれど最近はよく見ます。年齢と共に早起きになってきたからもあるかもしれません。


生活の全てが瞑想の対象なんですよね。座るだけが瞑想じゃない。


座るとしてもそれは日常に活かすため。


しかし本当は「何々のため」でもなく、全ての行為はそれそのもののためにあるんですね。そのことをついつい忘れてしまうから「今ここ」から意識が離れてしまいます。


心を込めて何かをする。それだけ。ただそれだけ。それが難しいのだけれど、それができたとき、結果的に心や脳をいたわることになります。


・・・あなたは歩くことのできる身体に感謝しながら歩いているでしょうか?


・・・あなたが心を込めてやっていることは何でしょうか?


・・・あなたが心を込めてやりたいことは何でしょうか?



1498016443

出来事に何ひとつ無駄なことはありません


いまどんな状況におかれていても


どんなつらいことがあっても


その意味を探るなら


その結果何も分からないとしても


何も変わらないとしても


そのプロセス自体が


やがて意味を持ちます






1496704104

海と波のたとえ話


禅・仏教・ヨガ・マインドフルネスの世界では「海と波」もしくは「水と波」のたとえ話がよく使われます。


これを言葉や知識だけではなく、心から自覚できたとき、結果的に心が穏やかにあることができるのだと思います。




◎海を世界全体にたとえた場合、波を個人にあてはめて理解します。


波には小さな波、大きな波、静かな波、荒々しい波、いろいろあります。


それは個性でもあり、風や岩や海の深さなどによる環境でも違いがみられ、あくまでも一時的な表われにすぎません。


波が他の波と見くらべてしまうことがよくあります。


小さな波が大きな波をうらやましくみることもありますが、台風で大きな波に変化することもあるでしょう。


大きな波がちょっと偉そうにすることもありますが、次の瞬間、大きな岩にぶつかって砕け散ることもあるでしょう。


となりの波と比べることは無意味です。なぜなら、海も波もその本質は同じ水だからです。


そのことに気づいて理解した時、それぞれの波が波であるあいだ、今ここで波であることを本当の意味で楽しむことができるのではないでしょうか。





◎海を心にたとえた場合、波を感情に当てはめて理解します。


感情や思考は心の波です。


それらは自分の外部要因で起きたと考えがちです。


実際には自分の心の中で自分自身で作り出して起きています。


一時的に心の中に現れたにすぎないただの波です。


波が起きないように努力してもそれはできません。起きるのが自然です。抵抗するにはものすごくエネルギーが必要になり疲れます。


心の中には全てが包含されています。海のように広く深くどんなものも受け入れられる心。


海の波も本質は水ですから、波と水を区別して考えることは幻想です。波と水はひとつです。


どんな波も形がちがうだけで本質は同じであることに気づくと、感情や思考も本質が同じである心の表現にすぎないことを自覚できます。


気づいていてもいなくても、本当の自分は海のように広く深く海底のようにいつも変わらない穏やかな心です。




参考: 禅マインド ビギナーズ・マインド(サンガ新書)鈴木俊隆, 松永太郎



1495949227

自分とは何者か?


土曜日のNHK「心の時代」の再放送で「自分とは何者か?」をテーマの番組だったので、ちょっと考えてみました。


ほとんどの人は今までこんなことを真面目に考えたことはないだろうな。


自分とはこの肉体か?→大切な容れ物だし素晴らしい五感センサーがたくさん備わってるけど違うと思う


自分とは脳か?→全てを自分の意志通りにコントロールできない観点では違う


自分とは原始脳か?→もしかしたらこのあたりが近いのかもって気はするが、本能偏重で生きて幸せなのかと考えると違う気がする


自分とは聞こえている音、見えている物か?→意識しないと認識できないわけだから違う


自分とは感情か?→不安だなとか嬉しいなとか、感情に気づけるということは対象的に気づけるから違う


自分とは思考か?→明日のあの仕事はどうしようかとか、考えている内容、思考にも気づけるから自分自身ではないし、これも対象的に気づけるから自分自身ではない


それならば、対象に気づこうとする意識が自分自身か?→その意識に思考が関わっている限りはやはり思考の領域を出ていないので違う。もし思考が関わっていなければ、もしかするとこれかもしれない。




結論


今の私には分かりません。(^-^;

結局は言葉を使って思考でこねくり回している限りは分からない。でも時々、一見意味の無さそうなこんなことを考えるのも、思考や感情と距離をとって余裕を生み出すキッカケにはなります。

自我の出てくる前の赤ちゃんは意識せずに身体全体で感じ切って生きている。だからどの赤ちゃんも無邪気で幸せそうな本当の笑顔をみせてくれる。誰にでもそんな時期があったことがなんか不思議でもあり、ヒントにもなり、救いかな。

1495622048

評価せずに観察するということ


受動局面のマインドフルネスの基本は「意図的に注意を向ける、評価せずに注意を向ける、今この瞬間に注意を向ける」なのですが、


特に「評価せずに注意を向ける」ということが実際にやってみると本当に難しいです。


(評価せずに注意を向ける=評価せずに観察する=ただみる=無心にみる≒考えが起きてもそれに気づいてあるがままに感じる)



人から言われた言葉、人のしぐさ、表情・・・


過去にあったことを思い出しつつ人を見てしまう、反応してしまう・・・


あの人がいやだ、あの人のようになりたい・・・


物事の正しさ、誰かが決めた基準、それを自分のものさしでそんなことは間違ってると評価、批判したり、当然と評価したり・・・


自分の思った通りに進めばそれは当たり前と評価し、進まなければ残念と評価してしまう・・・


今のままの自分ではダメかもしれない・・・


自分の限界はここまでだ・・・とか



全ては自分のものさし、本音・自我というフィルターを通して見ています。


それはコロコロ変化しますからまったくアテになりません。


そうせざるをえない自分の本音に優しく気づき、観察することが大切です。


空に流れる雲のように、評価する反応も思考も、自然に発生してしまうものですが、ムダな抵抗をせずにただ観察することで、自然に消えて行きます。もし抵抗したくなったらその抵抗そのものもただ観察します。


本来の私たちはいつも自分が思っているような自分ではありません。思考そのものでもありません。観察することによってそれを認識していきます。


本来の自分は・・・つづきはまたいつか。



- 1 - - 2 - - 3 - - 4 - - 5 - - 6 - - 7 -